プロフィール 山上 剛史さん
現職:株式会社SOERUTE 代表取締役
株式会社染めQテクノロジィ 川崎R&Dセンター長
theory株式会社 代表取締役
自衛隊在職時最終役職:航空自衛隊3等空佐
元自衛官キャリアインタビュー Vol.30
経歴
ーー本日はお忙しい中、退職予定自衛官、元自衛官のキャリアを考えるインタビューにご対応いただきありがとうございます。まず、山上さんの経歴を教えていただけますか。
山上さん:防衛大学校49期(2005年卒)です。航空自衛隊へ配属されて、幹部候補生学校を卒業したのちに、航空自衛隊の航空機整備幹部として、那覇、三沢、幹部候補生学校教官、航空幕僚監部で勤務しました。
指揮幕僚課程に合格し、その後、空幕防衛課に勤務してから、オーストラリア国防大学およびオーストラリア国立大学へ留学。市ヶ谷に戻ったところで家庭の事情により、2019年4月に自衛隊を退職。
現在は、地域を支える医療福祉サービスとして、訪問看護、訪問介護、居宅介護支援、小規模多機能型居宅介護、グループホームの5つの事業を行う会社経営ほか、塗料メーカーの川崎支社長をしています。
逆境を乗り越えて高い成績を残した防衛大学校時代
ーー少し掘り下げてお伺いしますが、まず防衛大学校へ入学された背景と在職時の職務内容を教えていただけますでしょうか。
山上さん:実は最初から防衛大学校を志望していた訳ではないんです。当初は、慶應義塾大学へ行くことを考えていました。
ですが、この話をする前に、幼少期からの僕のお話をさせてください。
僕は、年商20億円そこそこある会社を経営する両親の長男として生を受けました。母は商人の子供として一人前にしたい思いが強く、物心ついた時には、街の人に物を売ることを実践させられ、子供の頃から暗算、度胸、営業トークを学びました。
地元は埼玉でしたが、「1人前になるには早くから人と共同生活すること」という教育方針の下、中学から高知県の土佐塾中学・高校に行って、6年間寮生活をしていました。
ただ、大学受験の頃に、親の会社の経営状態が悪くなっていました。そのため、慶応義塾大学を志望していましたが、次第に国立大学への進学を考えるようになりました。
そんな時に親がお世話になっていた元三国コカコーラ会長の宮田さんから、防衛大学校入学を強く勧められました。
「おれは経営者の基本は軍隊生活から学んだ」
志望大学に行けないものの、実績のある人からの推奨は入学への強い動機になりました。
あと、大学に行きながら給料ももらえるなんておもしろい学校だと感じ、成績優秀でトップで入学し、学生代表で入校宣誓する機会もいただきました。
ただ、第一志望が慶應義塾大学だったことから、入学当初はあまりやる気もなく、受け身的な側面があり、正直最初はだらだらとした大学生活を送っていました。
そんな時、親の会社がいよいよ倒産。
帰る先が無くなってしまったことで、人生は自分で何とかしなくてはならないと心を入れ替えて、勉強、課外活動に精を出しました。防衛大学校でトップを取るつもりで、結果的に、4学年時に大隊学生長という大役もいただきました。
幹部候補生学校を首席で卒業し、部隊配属
ーー心配だったと思いますが、切り替え早く、その後の行動に強いパワーを感じます。
山上さん:そうですね。親とも音信不通でしたが、心配していても仕方が無いと、学業そして、配属後の幹部候補生学校に努力へ振り向けていきました。その甲斐あり、航空自衛隊幹部候補生学校は、首席で卒業しました。
初任地の那覇では、航空機整備幹部としてF-4からF-15の部隊改編事業を経験。次の三沢基地では、F-2飛行隊の整備小隊長として勤務し、その際東日本大震災も経験しました。
震災当時は日米共同訓練から帰ってきたばかりで、すぐに災害派遣へ出ていくことになりました。今でも忘れないのは、パイロットが被災状況を撮影した写真です。
まさに今、海岸に津波が向かっている写真や岩手沿岸の燃え盛っている街の写真を確認したときは衝撃的でした。早急に上級部隊へ報告するとともに、夕方には指揮所が立ち上がって、その日の夜に人員派遣を命ぜられて、岩手の山田町に送り出しました。
リーダーは常に部下を愛し、足元の努力を怠らないこと
ーー震源地から近いところで任務に当たっていたんですね。そんな山上さんの自衛隊在職中の思い出・エピソードを教えていただけますか。
山上さん:航空機整備幹部としての勤務も思い出深いですが、幹部候補生教官時代の思い出もかけがえのないものです。
幹部候補生学校の区隊長をしていたときは、卒業すれば組織でリーダーとなることから、「部下を愛しなさい」と口酸っぱく言っていました。
かなり厳しく指導はしていましたが、
自分が厳しいのは愛しているからだ。どうでも良かったら言わない。
と。候補生にもその思いは伝わったかと思っていますし、今でも皆と交流しています。
それも僕自身が先輩方から非常に良い指導を受けたからなんです。幹部候補生学校を卒業して、部隊長へ挨拶に行ったところ、「山上、TOEICは何点だ」と聞かれました。
当時TOEIC400点ちょっとくらいで、とくに勉強する気もなかったのですが、部隊長からは「将来の海外指揮幕僚課程に行き、組織を牽引する自覚があるなら努力しなさい。最近留学から帰ってきたパイロットに指導を受けてきなさい」と指導されたんです。
それで、そのパイロットに会いにいくと「山上、まだ3尉だろ?指揮幕僚課程のことなんて、先のことを考えずにまずは与えられたいまの仕事を120%しろ」ともっと厳しく指導されました。
それで目が覚めました。
夢を持つことはとても大切ですが、それに向けて足元の努力を怠らないことを学びました。結果より過程が大事なことに気づいたんです。
このことは、今でも自分の人生訓となっています。英語の大切さ、組織を牽引する自覚を教えてくれた方、足元の努力の大切さを教えてくれたパイロットの方共に、後に空幕の班長、課長であり、現在は、それぞれ基地司令としてご活躍されています。
このように、いつも適切な指導をしていただいたメンターのおかげで今日の私があります。私は、私情で組織を去らざるを得なかった。ただ少しでもそんな組織に、今後恩返しをしていきたいと思っています。
厳しい英語力を求められた留学と逆境を乗り越えて最優秀褒賞を受賞
ーーそして、防衛省勤務から指揮幕僚課程を終了し、オーストラリアへ留学することになりますね。オーストラリアへの留学は空自からは初だったとか。
山上さん:そうですね、オーストラリア留学は準備から現地での勉強も併せ大変でした。
そもそも海外留学ですが、指揮幕僚課程合格者上位数名が選抜され行くことになります。
当時はアメリカ、フランス、韓国しか留学先がなく、その中で、アメリカ、韓国は戦闘機パイロットが行くことが多く、僕はフランス留学要員に選抜されました。
留学前は、航空幕僚監部防衛課で業務する傍ら、留学準備をしていましたが、フランスの武官から日本の留学枠が無くなったことを通知されました。
留学がなくなり途方に暮れていた矢先でしたが、空自では初めてとなるオーストラリアへの留学を打診され、快諾。
ただ、留学にIELTS(アイエルツ)という英語試験の留学基準のパスが求められます。私は、当時TOEIC850点くらいはあったため、英語にはある程度自信がありました。
ただ、先輩に聞くと、TOEICと比較して非常に難易度の高い試験だと聞かされ、いざ受験してみると5.5/9.0でした。
留学のためのボーダーラインは、6.0を取らないといけません。
そのため、業務終了後に、四谷の自習室を自腹で借りて3ヶ月籠って勉強し、受験のために大阪、埼玉と試験を実施しているところに赴き、成績提出期限ぎりぎりに何とか6.0を取得し、オーストラリア留学の切符を手に入れました。
ただ、これはあくまで留学の切符であり、オーストラリア国立大学で修士を取るには、更に6.5~7.0が必要だと大使館から言われ、愕然とした覚えがあります。
ーー留学って大変なんですね。修士課程は必須なんですか?
山上さん:防衛省からは修士取得は必須ではないと言われていましたが、空自初の留学でパイオニアとして後輩達に引き継がなければという気持ちから、逆にチャレンジ魂に火が付きました。
そこでまず、メルボルンにあるオーストラリア軍の語学学校(DITC)へ留学。そこで単身5ヶ月間、指揮幕僚課程受験と同じくらいの勉強です。毎日エッセイを10本書いて、ほぼ寝ずに勉強するような感じです。
そして何とか7.0を取得し、晴れてオーストラリア国立大学へ入学。
IELTSの基準取得後、家族もオーストラリアへ呼び、大学のあるキャンベラに居を構えました。
2017年1月から12月まで、豪州国防大学指揮幕僚課程及び豪州国立大学軍事防衛学修士課程を履修。多くのオーストラリア、海外軍人がドロップアウトする中、両課程を無事修了。最終的には最優秀海外留学生褒賞を受賞しました。
親族が倒れ、家族も大きな負担からやむなく自衛隊を退職
ーーすごすぎます!チャレンジ精神が山上さんの原動力な気がします。ここから現在のお仕事をお伺いします。現在株式会社SOERUTEの代表取締役等として活躍されていますが、なぜ自衛隊からへ転職されようと思ったのでしょうか。
山上さん:やむを得ない事情がありました。オーストラリア留学を終了し、日本に帰ることが決まった1週間前に親族が寝たきりに。
複雑な家庭事情からその親族の会社整理をすることになりました。大きな借入とその返済や従業員の継続雇用の必要もあり、防衛省を退官できない私に代わり、妻が会社設立をしました。
ただ、設立のタイミングで妻は出産。出産後のケアしながら、仕事の立ち上げもしなくてはならない状況で、ストレスで体調不良になり続ける妻がいました。
さすがにこのままにはできず、職場へ迷惑を掛けてしまうと思いながらも、育児休業を取得させていただき、子育てを妻に代わってすることを決意しました。
しかしながら、今度は長女が大怪我を負い大手術。妻に長女のケアや事業継続を一人で行わせてしまっていることも含め、自分の家族一つ幸せにできないことへ自責の念がどんどん大きくなってきました。
加えて、今後休職等するとまた組織に迷惑を掛けてしまうため、これ以上育ててもらった組織を裏切れないとの思いから2019年4月に自衛隊を退職しました。
ーーそれはかなり大変な状況を経験されています。そして現在は会社経営をしていますが、会社やご自身の今後の方針をお聞かせください。
山上さん:地域の医療福祉のサポートとして、訪問看護、訪問介護、居宅、小規模多機能型居宅介護、グループホームの5つの事業を行う会社経営をしています。
日本は医療技術の進歩に伴い長寿化が進み、超高齢社会となっていますが、そうした介護福祉が必要な利用者へ所要のサービスを効果的かつ効率的に提供する必要があります。既存の福祉の考えに捉われず、新しい風を吹かせていきたいと思っています。
また、僕自身のキャリアは、自衛官OBとして、自衛隊に育ててもらったと強く感じています。そのため、自衛隊はこんな人たちを育てる組織なんだと社会にわかってもらえるように、自分がその模範となれるような人間として魅せていきたいと考えています。
常に現場を忘れないリーダーシップスタイル
ーー素晴らしいですね。元自衛官は民間でも活躍できると魅せていきたいですね。そんな山上さんですが、自衛隊在職中は、どういったことを意識されていたのでしょうか。
山上さん:リーダーシップに関してでしょうか。
航空機整備幹部は部下が多いんです。リーダーシップはいろいろなタイプがあります。オーストラリアでは
「社会的アイデンティティー理論」
を学びました。
この理論は、自衛隊でいう「統御・統率」に通じるものがあります。
一般にリーダーとは、引っ張っていくイメージが先行しますが、これは部下の意に反し、乱暴にもなりうるし、独りよがりになることがあります。それよりも部下が自ずとついて来ようと思うスタイルです。
そのためには、自分のことを好きになってもらわないといけないです。
自分を好きになってもらうため、統御・統率のリーダーシップを実践するために、常に部下の視点で考えて、現場を忘れないことを意識しています。
正直な話、経営者目線でいうと、現場の細かいことまでケアできないという経営者もいると思います。ただ、どんな細かい作業でも嫌わずに意見を聞くし、ケアするようにしています。
経営者として、資金調達や目標達成の追求だけを役割と考えるのではなく、それ同等もしくはそれ以上に重要なのは、努力している現場です。そのため、現場にもしっかり顔を出して、気にすることを意識しています。
転職・再就職自衛官へのアドバイス
自衛隊の常識、世間の非常識を意識しましょう
ーーこれから転職・再就職をする人に向けてのアドバイスをお願いいたします。
山上さん:自衛隊の常識、世間の非常識はよくいいますが、それは合っていると思います。自衛隊の世界は陸海空22万人いて、全員が大きくは、同じベクトルを向いて活動しています。いわば狭い世界ですよね。
ただ、民間企業は違います。自衛隊の時に当たり前のように考えていたことは通用しないことが多いです。
なので、ここは、防衛省、自衛隊ではないことをしっかり認識しないといけないと思います。
ただし、文化や価値観は違いますが、気の持ち方や自己形成に関わることで自衛隊で得たものは、民間企業に出ても必ず活用できるし、負けないと思います。
自衛隊は、人を育て、人を大切にする組織だと思っています。そうした中で学んだことは、人の上ではなく、前に立つこと、常に真ん中にいて、みんなの意見を代弁していくリーダーシップでした。これは必ず民間でも通用します。
それをするためには、人に付いてきてもらうよう自分が努力するべきだと思います。
常にひとのことを考え、ひとの為に考え、自分を律することにより、自ずと結果が出ますし、それを知っていることは、自衛隊にいた人たちの強みだと思います。ぜひそれを、強みとして自覚して、自信を持っていてほしいと思います。
ーーありがとうございました。山上さんへメンターとしてコミュニティで直接話を伺えますので、ご希望の方は下記よりお申し込みください。